top of page

「劇団クセックACT」と劇作家コピのこと 〜スペイン語劇サークルから始まった演劇の旅〜

  • 吉川 恵美子
  • 2023年8月2日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年8月14日



  名古屋に拠点を置く「クセックACT」という劇団がある。田尻陽一(関西外国語大学名誉教授)が訳したスペイン語圏の芝居を上演する劇団であるというのが長年にわたる私の認識だった。日本での上演に加え、スペインの古都アルマグロで開催される古典演劇祭にたびたび参加し、現地の新聞にも取り上げられていた。セルバンテスやバリェ・インクランといった作家の古典作品が、日本語上演で、日本の舞踏の身体表現を思わせる演出で逆輸入されたのだから、スペインの観客はその斬新さにさぞ圧倒されたことだろう。(同じ演劇祭に参加していたコロンビアの俳優の友人がKSEC ACT『ドン・キホーテ』の舞台がとても良かったと感心していた。)こうした情報を得ながらも、なかなか名古屋まで足を運ぶことができず、私が観た作品は東京で上演された数本と、ロルカの『観客』の名古屋公演だけだった。

  その「クセック」のメンバーである深澤伸友氏から2年ほど前に突然、レターパックが届いた。2011年に結成され、深澤氏が代表を務める【PAP・でらしね】がアルゼンチンの劇作家コピ(Copi, 1939-1987)の翻訳作品『フリゴ』を上演するという案内と関連資料が入っていた。添えられていた手紙を読むと、私が20年ほど前に書いた短い記事のなかでコピに触れているのを見て、コピに関心のある人間だと認識されたようだった。私がその記事を書いたきっかけは、ラテンアメリカの国でありながらアルゼンチン演劇はヨーロッパの演劇伝統に近い感性をもつのではないかという点に関心があり、一例として、パリで活躍したコピを取り上げたのだった。特にコピのファンだったというわけではない。しかし今回、コピがきっかけとなり、スペイン語圏演劇の仲間と出会えたこと(実は再会)はとても嬉しかった。

  結局、案内をいただいた2021年の『フリゴ、もしくは・・・冷蔵庫』も、その次の2022年の『エバ・ペロン、もしくは・・・エビータのひつぎ』(いずれもフランス語から西村和泉 訳)も観ていない。怠け者には東京ー名古屋の距離がなかなか遠いのだ。しかも、私のこのホームページで『エバ・ペロン〜』の23年6月再演の公演予告をしますと約束したにも関わらず、なかなかホームページを更新できずにいたため、機会を逃してしまった。せめてこのブログに関連資料のリンクを貼りたいと思う。


  コピをめぐって深澤氏とメールでやり取りする中で、深澤氏と私は50年前から、実は、パラレルな演劇の道を歩いてきたことに気づかされた。「劇団クセックACT」の原点は「スペイン語劇サークル」だという。のちにクセックの代表となる神宮寺啓は南山大学で『ドン・キホーテ』や『ドン・ペルリンプリンがお庭でベリーサを愛する話』などの上演に熱心に取り組んでいた。関西の他の大学の学生たちもこれに大きな刺激を受けた。愛知県立大学に在学していた深澤伸友もスペイン語劇を通じてロルカに関心を抱くようになったという。彼らはさらに、「関西スペイン語学生連盟」の語劇祭に参加することで互いに刺激しあい、本格的な演劇活動をめざすようになっていった。文学座出身の若林彰との出会いも彼らの方向性に大きな影響を与えた。若林は1968年のナンシー演劇フェスティバルが世界演劇に起こした波を日本で受け止めた人物である。1970年に東京で「国際青年演劇センター(KSEC)」を立ち上げ、国際交流を主眼においた実験演劇の試みを始めていた。名古屋の「スペイン語劇サークル」出身の若者たちは若林が発するエネルギーを浴びながら歩みを進めていった。1974年には若林のKSECの連絡機関として「ラテンアメリカ委員会(CAL)」を名古屋に立ち上げるに至ったという。彼らはスペインやメキシコに留学して演劇を学んで帰ってくると、その体験の全てを自分たちの舞台実験に注ぎ込んでいった。こうして1980年に「劇団クセックACT」が名古屋に誕生した。


  同じ頃、私は上智大学の「スペイン語劇サークル」でブエロ・バリェホやキンテーロの上演に参加していたが、サークルからの展開は何もなかった。スペイン語の戯曲を演じる活動を静かに、単純に、楽しく続けていた。名古屋方面の動きを知る由もなかった。関東にも「大学スペイン語 語劇祭」という組織があったが、私が上智に在学していた時期には伝統が途切れていた(注1)。私自身はサークルで1年間活動したあと、スペインに留学した。マドリード・コンプルテンセ大学の文学部で「スペイン黄金世紀の演劇」を聴講はしたが、基本的には外国人を対象とするディプロマ・コースの学生だった。淡々と机に向かい、"模範的な"留学生活を終えた。帰国後に大学を卒業し、早稲田の演劇科の大学院に進んだ。安藤信敏教授(安堂信也)のゼミでスペイン現代演劇の作家について研究を始めたが、当時の私にとって、演劇イコール戯曲だった。作品を読んでの机上の分析。疾風怒濤ともいえる1970年代の演劇現場の大きなうねりの時間の中に私はいたはずだが、大学のアカデミズムの外に出ることは怖くてできなかった。劇団民芸や俳優座の芝居は安心して観られたが、靴を脱いで床に座らされ、たくさんの観客がぎっしり詰め込まれる小劇場の芝居では身体的な苦痛と酸素不足から気分が悪くなった。新しい演劇の目撃者になるための「体力」がなかったのだ。それでも恩師の紹介で知己を得た利光哲夫が新しい世界へ導いてくれようとしていた。利光がフランス語から訳したバリェ・インクランの『乱飛幼幻』(原作名はDivinas palabras)を紀伊國屋ホールで上演した際に翻訳の助手を務めさせてもらった。深澤氏はこの舞台を観ている。ロビーで簡単に挨拶をさせてもらった記憶がある。「劇団クセックACT」立ち上げまぢかの彼らにとって、バリェ・インクランは劇団の中心に据えていた作家だったから『乱飛幼幻』は観なければならない舞台だったのだろう。この頃、私は若林彰の「国際青年演劇センター(KSEC)」とも接点を持った。若林彰はペルーのインカに起源をもつと言われる『オジャンタイ』(Ollantay)という芝居の翻訳草稿のコピーを渡してくれた。稽古場の見学もさせてもらった。この時期、深澤氏と私は近い場所にいたのだと思う。何かが始まろうとする熱気のようなものが渦巻いていた。「体力」の弱い私にはそれを掴まえることができなかった。深澤氏たちは熱気をしっかりと取り入れて自分たちの演劇をつくっていった。私は若林彰との縁も、利光哲夫との縁も発展させることなく、修論を書き終えるとメキシコに留学し、自分の「体力」にあった演劇研究を続けた。


  あれから50年近い時間が経った。エネルギッシュな活動を続けてきた「劇団クセックACT」や【PAP・でらしね】の深澤氏に再会することで、どんなふうに自分が歩いてきたかが俯瞰的に見えるような気がする。

  コピにハマってしまった深澤氏は「コピ演劇プロジェクト(CPTP)」を立ち上げ、今後コピの戯曲作品10本ほどの邦訳を完了したのち、『コピ戯曲選集vol.1』の出版を目指しているとのことだ。


以下は深澤氏から提供された本稿の関連データである。

✧ 2023年6月『エバ・ペロン 〜もしくは・・・エビータ、アルヘンティ-ナの女    神!?』公演情報と当日配布のパンフはこちら ▶️  https://www.ksec-act.com/

台本・演出の深澤伸友氏と翻訳の西村和泉氏の言葉が綴られています。

✧ KSEC―ACTの歴史はこちら ▶️ https://www.ksec-act.com/archive


注1

上智大学イスパニア語学科のホームページに「語劇」の項目がある。学科の語劇の記録をまとめるために設けたページであるが、ここに「パンフレット一覧」を載せた。上智だけはなく、関東の大学のスペイン語学科が集まって実施した1960年からのスペイン語劇祭の歴史の一部も収集してある。

最新記事

すべて表示
パトリシア・アリサと日本

演劇人のパトリシア・アリサがコロンビアの新ペトロ政権の文化大臣に選出されたことをこのホームページの7月5日の「演劇関連ニュース」で紹介した。アリサは2008年に来日したが、この頃から日本の演劇人たちと交流が始まった。日本ではなかなかラ米演劇に目が向けられないが、アリサと日本...

 
 

コメント


bottom of page